8ビットパソコンの思い出

1 はじめに

私がパソコンを始めたのは1981年のことです。中学一年生(1980年)の時にいわゆる「ラジオ少年」だった私がパソコン(当時はマイコンと呼んでいましたが)に興味を持ち始め今に至るまでずっと趣味でパソコンを楽しんでいます。そんな1980年代に楽しんだパソコンのお話をしていきたいと思います。当時を懐かしむのもよし、昔はこうだったのかと思うのもよし、この記事を楽しんでいただければと思います。

2 パソコン少年誕生

2.1 初歩のラジオ1981年6月号「君もBASICをマスターしよう」から始まった

私が電子工作とかに興味を持ちだしたのは1980年のことでした。当時は中学一年生でした。今と違って、将来有望な??少年でした。半田ごてを握って電子工作に勤しんでいました。中学校のクラブ活動で「電子工学部」というクラブに所属していました。このクラブの部費で定期的に雑誌を買ってくれてよく読んでいました。「初歩のラジオ」と「ラジオの製作」などの雑誌です。「初ラ」と「ラ製」と呼んで親しんでいました。個人でもお小遣いで初歩のラジオは読んでいました。そんな中、初歩のラジオ1981年6月号で「君もベーシックをマスターしよう」という特集記事がありました。BASIC言語について解説したものです。これを土曜日の夜に読んで「一晩でプログラミングを理解した!!」と大喜びでプログラミングの道に入っていきました。内容はBASIC入門の特集で、画面に文字を出す、条件で処理を分岐させる、繰り返し処理を行うなどの極々基本的な内容でした。そこでプログラムを組んで動かすことが理解でき急速にパソコンに興味がわいてきたのです。今でもその気持ちは持ち続けています。
当時、出てきたのは下記のステートメントでした。

PRINT
INPUT
GOTO
IF~THEN
GOSUB / RETURN
FOR~NEXT

これだけの内容でプログラムが動かせる。それは感激でした。今考えるとちょっと読めば理解できる話だろうと思いますが、当時はスペースインベーダーが流行ったちょっと後の話でパソコンなんてものが一般的なものではなかったのです。ですから、前人未踏の領域に足を踏み入れたという喜びが大きかったのだと思います。ただ、BASIC言語は覚えても実際に試すパソコンは持っていませんでした。当時の憧れのパソコンは日本電気のPC-8001でした。定価168,000円。中学生にはとても買えるものではありませんでした。

2.2 MZ-40K

中学校のクラブ活動「電子工学部」は、放課後に技術家庭の教室を部室として使っていました。顧問の先生は技術の先生でした。今でも同窓会で年一回お会いしています。そのクラブに入部したときにワンボードマイコンがありました。シャープのマイコン博士MZ-40Kというマイコンボードです。マイコンと言ってもプロセッサは何だったか覚えていません。というか知りませんでした。今調べたのですが、MZ-40Kはプロセッサが4ビットマイコン富士通のMB8843、メモリはCPU内蔵メモリが32Byte、プログラム用メモリが512Byte、ROMはCPU内に1KB搭載していました。

20cm四方位のサイズのプリント基板にICが並び、16個のキーボード(16進数が入力できるキーボード)と7セグメントLEDが4桁並んでいました。これはプログラムを動かすと言うより入力したデータを順次表示したり、スピーカーから音楽を鳴らしたりして楽しんだ覚えがあります。ルーレットとか簡単なゲームもできたと思います。シミュレータを作った方もおられるようです。

2.3 天才電卓ピタゴラスPC-1211

中学校のクラブ活動で教材というか技術家庭の予算で買ったのかはわかりませんが、顧問の先生がシャープのポケットコンピュータPC-1211を持ってきました。先生は成績の集計などにも使っていましたが、私たちにも開放して使わせてくれました。ポケットコンピュータ、略してポケコンです。当時はシャープの関数電卓の一つという位置づけだったと思います。「天才電卓ピタゴラス」という商品名がついていました。

PC-1211の特徴はBASIC言語でプログラムが組めるということでした。ある程度の処理をプログラムで組んで動かすというレベルであればカシオ計算機のFX-502P/FX-602Pがありましたが、BASIC言語でプログラムが組めるのはPC-1211が初めてでした。オプションのプリンタユニットはドットインパクトプリンタで英数字が印字できました。画面は24桁×1行でした。このポケコンにプログラムを打ち込んで実行しました。プログラムの記憶容量は1424ステップでした。マニュアルにはプログラム集も付いておりロケットの軟着陸ゲームとかが入っていたと思います。ロケットの燃料を数字で入力してEnterキーを押すと、その燃料によりロケットが噴射して上昇します。重力で下に落ちていくのですが、燃料を与えすぎると上昇し過ぎてゲームオーバーとなり、燃料が少ないと地表に激突してゲームオーバーというものでした。速度0で無事着地させると成功となります。それらのゲームで遊んだり、自分で作ったプログラムを動かしたり、ゲームを改造したりと、クラブのみんなで取り合うようにポケコンを使っていました。
そして作ったプログラムはカセットテープに記録します。オプションとしてカセットインターフェースも付いていて、プログラムをカセットテープに保存できました。試しにこのカセットテープの音を聞いてみたら「ピーーーーーー、ギャラララピーーーー」って音が出て「これがプログラムの音か」と感激したことがあります。記録はできても、再生時のテープの状態により読み込めないこともありました。
PC-1211は初めて自分の作ったプログラムを動かしたコンピュータでした。

2.4 マイコンからパソコンへ

1980年。既にこの時は市場にはパソコンが出回っていました。代表的なパソコンは日本電気(NEC)のPC-8001とシャープのマイコン博士MZ-80Kでした。マイコンという言い方からパソコンという言い方に変わってきたのはこの頃です。マイコンはマイクロコンピュータの略ですが、マイコンピュータ「私のコンピュータ」とも言われていました。コンピュータというものが個人で持てるようになったのはこの頃だったのです。そして、パーソナルコンピュータ、略してパソコンと言われるようになりました。もともとPC-8001のPCという名称はPersonal Computerから来ています。「パソコン」じゃなくて「パーコン」が正しいという議論もありました。

2.5 PC-1500

ポケットコンピュータはシャープのPC-1211を皮切りにカシオ計算機からも出てきました。そんな中、ハイエンドモデルと呼べるマシンが出てきなす。PC-1500です。それまでのポケコンと違うところは液晶のドットの描画ができることでしょう。つまり、文字だけではなくポケコンで初めてグラフィック表示ができるようになったのです。しかも、それを自分でプログラミングできるとなると、それはもう「男の子なんてイチコロよ」って訳です。グラフィックと言っても文字数にして26文字、ドット数は156×7ドットでした。それでも、初めて自分でコンピュータに文字として用意されもの以外の絵を表現できるということは画期的でした。
何よりもプリンタが傑作でした。この頃プリンタと言えばサーマル式のプリンタが多かったのですが、PC-1500のプリンタはボールペンで描くプロッタプリンタなのです。印字速度は遅いんですが、ボールペンで文字を描いたりグラフを描いたりするところが何とも人間味がありました。

2.6 第一家庭電器とLaOX

 当時中学生だった私にはとてもパソコンは買えませんでしたし、買ってももらえませんでした。まあ、そんなもん買ったら勉強しなくなって高校受験に差し支えるということも言われますので。そうでなくてもアマチュア無線や電子工作で勉強もろくにしなかったので。(今でも勉強しませんけどね。)
当時は電気屋さんにパソコンコーナーが割とあって、パソコンが置いてあったんです。日本電気のPC-8001とかシャープのMZ-80Kとか日立のベーシックマスターとかですね。しかも、結構自由に使わせてくれたんです。今考えると信じられませんよね。店員さんともお友達になれたし、買いもしないのによく遊ばせてくれたりしました。よく行ったのは大和市(神奈川県)の第一家庭電器とかLaOXです。また、横浜市の希望が丘のロケットとかにも遠征に行きました。土曜日の午後とか日曜日なんか丸一日触っていましたよ。

 何をしていたかというと、自分の作ったBASICのプログラムを打ち込んで動かしてみるんです。平日に一生懸命ノートにプログラムを書くのです。それを週末にお店のパソコンで試します。手書きのプログラムが動いた時は感激でした。

 また、パソコン雑誌のI/OとかRAMとか月刊マイコンを持ってゲームプログラムを一生懸命打ち込んで少しずつカセットテープに記録してすべて入力し終わったらゲームで遊びました。当時のプログラムはカセットテープに保存していました。シャープのMZ-80Kはカセットテープレコーダーが標準で付いていましたので、特に用意する必要はなかったのですが、PC-8001はオプションですのでお店に置いてあることもあればないところもありました。置いていない場合は、カセットテープレコーダーを自分で用意するしかありません。私はどうしていたか忘れましたが、自前でカセットテープレコーダーも持ってきている人もいました。

色々なパソコンが使えてよかったです。ですから、各社のBASICの違いもわかりましたし、どんなパソコンでも特徴を理解して使えました。高校生に入って自分のパソコンを買うまではよく通いました。ある意味お店としてもデモンストレーションになっていたかと思います。(いや、それは思い込みか)
でも、そんな状況も何年も続かなかったと思います。お店も厳しくなってきたのか、そのうち店員さんもいい顔しなくなって、ひどい時にはプログラムを打ち込んでいる最中に掃除をするふりをしてコンセントを抜かれたとかいう話も聞いたことがあります。でも、それまで使わせてくれたお店には感謝しています。本当にいい経験をさせていただきました。もちろん初めてパソコンはLaOXで買いました。(別の店舗でしたが。)

2.7 西武労働レストラン

当時パソコンを使うと言えばプログラミングすることが当たり前でした。と思うのは一部だけかもしれませんが。今みたいに道具にはなっていなかったのです。コミュニケーションの道具でもないし、文書も作成できません。ですが、「ゲームをやりたい!!」というという目的でパソコンを買う方が結構いました。もちろん、それは立派な用途の一つなのです。でも、プロクラムを組んでいた人から見るとちょっともったいない使い方だと思っていました。そういう方に対して、またはそういう使い方をしている人たちが自虐的にパソコンの使い方を「西武労働レストラン」という呼び方をしていました。ゲームをやるといっても、市販ソフトを買ってくるのではなく雑誌のプログラムを打ち込んで遊んでいました。打ち込んだプロクラムをカセットテープに保存するBASICのSAVEコマンド、カセットテープに保存したプロクラムを呼び出すLOADコマンド、打ち込んだプロクラムの打ち間違いを確認するLISTコマンド、プログラムを実行するRUNコマンド、これだけしか使わないのでこう呼んでいました。

SAVE・・・西武
LOAD・・・労働
LIST・・・レスト
RUN・・・ラン

え!?そう呼んでいませんでしたか?

2.8 必殺16進数キー入力

パソコン雑誌には、プログラムそのものを16進数の文字列にして載せていました。これはマシン語と言って、CPUが直接読めて(翻訳もなしに)実行できるプログラムを表記したものです。見ただけでは何が書いてあるかわかりません。(そのうち何となく変わってくることもあるのですが)この16進数の文字列。「16進ダンプ(リスト)」と呼んでいました。この16進数の文字列を打ち込んで実行するとゲームなど遊ぶことができました。
また、16進ダンプリストにはで入力した16進数が正しく入力できたかチェックできるようになっていました。これは「チェックサム」といって、指定した範囲の合計値の16進数下二桁を算出して、正しく入力できているか確認するものです。16進数のダンプリストは横16バイトと縦16バイトの合計256バイトを1ブロックとして構成します。チェックサムは横16バイトの合計値の下二桁が各行の右端に、縦16バイトの合計値が各列の下に、右下には256バイト全部のチェックサムが記載されていました。256バイトのブロックごとにまず全体の合計値があっているか確認し、異なる値ならば縦横のチェックサムを確認して誤って入力した部分を割り出します。但し、合計値なので、二か所以上誤って入力して結果的にチェックサムが同じ値になってしまうこともあります。縦横でチェックすれば大抵は見つかるのですが、見つからない可能性もゼロではありません。すべて入力してチェックサムもあっているのに雑誌に掲載されたプログラムが動かないなんてこともありました。そのときは1バイトごとにすべてチェックもしました。それでも間違いがなくて途方に暮れていると、翌月号に「正誤表」が載っていてその通りに直したら動くこともよくありました。
16進数は0~9とA~Fで表現します。これをまともに打つのは大変です。キーボードのテンキーには0~9の文字があり入力しやすいのですが、A~Fの文字はメインキーボード側で打たなければなりません。パソコンのテンキーボードには数字以外に「+ / – * = .」と6個のキーが割り当てられています。16進ダンプ入力のプログラムが開発され、これらのキーをA~Fに割り当ててテンキーだけで16進数入力できるようになりました。そこからの16進数ダンプ入力は速かったですね。今でも右手がFM-7のテンキーで高速入力していたことを覚えています。

3 憧れの第一世代のパソコン

3.1 初代「御三家」 PC-8001とMZ-80Kとベージックマスター

1980年の時点で人気を二分していたのが日本電気(NEC)のPC-8001とシャープのMZ-80でした。PC-8001は本体とキーボードが一体型のパソコンです。ベーシックマスターも同様ですが、当時パソコンと言えばこのスタイルが多くありました。画面表示はCRTモニタに表示、またはアダプタを介してテレビに表示させていました。一方、MZ-80Kはキーボードもモニタもすべて一つの筐体にまとまった一体型のパソコンです。更に外部記憶デバイスとしてカセットテープレコーダーも内蔵していました。これを買えばすべてが揃っているという意味でも人気でした。モニタはMZ-80Kがモノクロですが、PC-8001はカラー表示できました。8ビットパソコンは日立のベーシックマスターとそのあと参入してくる富士通のFM-8と出てきます。これらのいずれかを指して「御三家」と言われていました。その中でもPC-8001とMZ-80Kは人気のあった2モデルであったと言えます。それぞれのパソコンを追っていきましょう。

3.2 PC-8001

PC-8001は日本電気(正確には新日本電気)から1979年9月に発売されたパソコンです。日本初と言われそうですが、日本で初めての完成品の一体型パーソナルコンピュータは日立のベーシックマスターです。しかし、非常に人気がありパーソナルコンピュータと言えばPC-8001という印象があります。価格もベーシックマスターが228,000円であるのに対して168,000円と20万円を下回ったことと日本電気の直営ショウルームBit-INNでの草の根活動が功を奏したともいえるでしょう。
CPUはμPD780C-1というZ80Aのセカンドソース品が使われています。メモリはROMが24KB、RAMが16KBでした。テキスト表示が最大80文字✕25文字、8色でこれがこの後のパソコンの文字表示の基準の一つになったともいえます(解像度の関係でどれも同じと言えば同じなんですが)。グラフィックスは160✕100ドットの8色です。今から見るととんでもなく荒い解像度ですが、当時はこのギザギザの解像度でもカラー表示するということで素晴らしいスペックでした。
言語はN-BASICでマイクロソフト製BASICです。この頃からマイクロソフトの名前は見続けていました。
とにかくアプリケーションソフトの数が多くて、特にゲームは多く、それが相乗効果となりMZ-80Kと人気を二分する大ヒットマシンとなりました。ゲームセンターでしか遊べなかったスペースインベーダーなどのゲームが家で無限に遊び続けられるなんて夢のような出来事でした。ゲームは月刊I/Oをはじめとするパソコン雑誌でも多く掲載されました。カセットテープで販売もされましたが、BASICのソースコードやマシン語のダンプリストで16進数の羅列が雑誌に掲載されてそれを見て打ち込んだものです。当時は電気屋さんで、ですが。
また、本体がヒットすれば周辺ハードウェアも出てきます。サウンド機能を持たせたボードやキャラクターを作成できるプログラマブルキャラクタジェネレータ機能を搭載したボードなど発売されました。キーボードはしっかりした本格的なキーボードだった覚えがあります。
本体とCRTモニタまたはRFアダプタによるテレビで画面出力します。当時は本体を買うのが(買ってもらうのが)やっとということでテレビにパソコンをつなげていた方も多かったと思います。Bit-INNというショールームがありここでも触れることができました。Bit-INNはすでに発売していたワンボードマイコンのTK-80のアンテナショップとして秋葉原駅前のラジオ会館にありました。秋葉原に行くパーツ屋を見てBit-INNにも行く。まさに巡回コースでした。パソコンとしても発祥地であり聖地でした。
まさに日本のパソコンシーンを牽引した一機種であると言えるでしょう。2015年9月1日には、国立科学博物館の重要科学技術史資料の第00205号として登録されています。

3.3 MZ-80K

シャープのパソコンMZ-80Kは半完成品でした。マイコン博士MZ-40の流れで組み立てキットという扱いでした。後で完成品としたモデルでMZ-80K2、MZ-80Cが発売になっています。価格は198,000円でした (当時は消費税というものがなかったので198,000円出せば買えました) 。本体、モニタ、キーボード、データレコーダーと必要な機構がすべて入っている「オールインワン」マシンでした。
本体を開けるときは車のボンネットを開けるようにキーボードから上をモニタごと持ち上げる構造でした。また、キーボードが特徴的でした。真四角のキートップに格子状に並んだものでした。マイコン博士MZ-40のテンキーボードをそのままフルキーボードにしたという感じのものです。このキーボードは電子パーツでも売っているようなものでした。元々がキットであったことを感じさせられます。後継機の完成品モデルであるMZ-80K2も同様のキーボードでした。MZ-80C以降はJIS配列のタイプライタのようなキーボードとなりました。
外部記憶装置としてはカセットテープに記録するもので、カセットテープレコーダーは内蔵されています。専用設計であることもあり、カセットテープの読み取り精度は他の機種とは圧倒的に高いものでした。当時はカセットテープが伸びてしまうこともあり、データを正常に読み取ることができず、読み取りエラーが悩みの種でした。
そして、MZシリーズ最大の特徴が「クリーンコンピュータ設計」であることです。他の機種は電源を入れるとROMからBASIC(インタープリタ)が起動しますが、MZシリーズは電源を入れるとモニタープログラムが起動して、カセットテープからBASICを読み込むのです。パロディ版Ah!SKIでも「おら秋葉さ行くだ」という替え歌(吉幾三のおら東京さ行くだの替え歌)でも「テープからBASIC 10分ちょっとのローディング」と歌詞があったくらいです。このモニタープログラムは「MONOTOR SP-1002」というものです。IPL(Initial Program Loader)とも呼ばれていました。ここからBASICをロードします。BASICの型番は、SP-5030でした。開発元はマイクロソフトではなくシャープが開発したものです。クリーンコンピュータ構想として「BASICだけではなく色々な言語を動かすマシンになれる」という利点が挙げられていました。もちろんROMに書き込まれたBASIC言語にバグがあった場合の修正を装置の交換ではなくカセットテープの再提供と考えると効果的だったかもしれません。今でいうインターネットからアップデートプログラムをロードするようなものですね。とは言っても、使い始めるまでに10分程度待たなければいけないというのは欠点の一つではありました。
MZシリーズは、一体型のオールインワンモデルであること、クリーンコンピュータ構想を持っていること、BASICがマイクロソフトBASICでない国産ソフトメーカーによるものであることなど、PC-8001をはじめとした他の競合機とは一線を画すパソコンといえます。それゆえ熱烈なファンが多いパソコンでした。

3.4 ベーシックマスターLevel 2

日立のベーシックマスターは、私が初めて使ったパソコンです。中学校のクラブ活動で「無料のマイコン教室がある」と教えてもらい参加したことがあります。確か神奈川県立青少年センターだったと思います。中学生を対象にした無料のマイコン教室です。クラブの先輩と一緒に申し込みました。行くと教室には10台くらいのパソコンがあります。グリーンディスプレイと呼ばれた緑色の単色モニタとパソコン本体がありました。日立のベーシックマスターLevel2というパソコンです。パソコンは正確にはベーシックマスターLevel2 mk2だったと思います。
「日立のHINT商品」として当時はHINTというブランドがあり人の横顔にHINTという文字が出るでも画面を見せてくれます。講師の方が「あ、これは気にしないでください」と苦笑いしていたのを覚えています。おそらく日立の方ではないかと思います。
キーボードは今のパソコンから見ると、かなりしっかりした作りになっていました。ボディは金属製です。さすが日立製作所の製品という感じです。日立としてはパソコンはまだコンピュータとしての扱いではなく、マイクロコンピュータの応用製品または家電製品としての扱いだったと思います。グラフィック機能はなく、ただ緑色の文字を表示するだけの画面でしたが、BASIC言語でプログラムが動かせたことは中学生の当時はただ感動ものでした。
ベーシックマスターLevel2(MB-6880L2)のスペックは下記のとおりです。(カタログより)

  • プロセッサ HD64800 (モトローラ8ビットプロセッサ 6800互換)
  • メモリ ROM 16Kバイト、RAM 8Kバイト
  • 画面表示 8×8ドットの文字を、横32桁×縦24行表示
  • 文字はグラフィック文字を含む253文字が表示可能。
  • キーボードはJIS標準配列56キー(テンキーはありません)
  • モニタ出力は、NTSC
  • カセットインターフェースは、カンサスシティースタンダード(300bps)
  • 音声出力は、5ビットD/A変換のスピーカー出力

実は日本製のキーボードを備えた完成された形のパソコンは日立のベーシックマスターが初めてでした。

4 もしかしたら買えるかも!!低価格パソコン

パソコンはとても高価でした。PC-8001が168,000円、MZ-80K2が198,000円・・・とても買えるものではありません。ポケコンの当時の最高峰PC-1500は59,800円でした。マイコンブームと呼ばれ始め、YMOが流行った「とってもテクノな時代」に手に届くような価格のパソコンが登場してきました。
価格帯は10万円を切ることです。それでも当時の中学生が買えるようなものではありませんでした。でも、決して夢ではなくなってきたのです。

4.1 シンクレアZX81

シンクレアというイギリスのメーカーが発売したパソコンZX81は37,800円という低価格でした。本体はコンパクトな一体型で軽いボディでした。キーボードはシートキーボードです。据え置き型パソコンとしてはポケットコンピュータ並みの価格です。これは中学校のクラブ活動で買ってもらえました。技術家庭のモノクロテレビにつないで放課後毎日プログラムを動かしていました。CPUはZ80、メモリRAMはなんと1KBでした。本当に小さな簡単なプログラムしか動かせなかったのですが、じっくり腰を据えて使った初めてのデスクトップパソコンでした。

4.2 ぴゅう太

変わり種としては、「ぴゅう太」が挙げられます。これは電機メーカーからではなく、おもちゃメーカーのトミー(現タカラトミー)から発売されたパソコンです。価格は59,800円。いわゆる低価格帯のパソコンです。カートリッジ式でゲーム専用機として動かすこともできました。むしろ、おもちゃメーカーからの発売で家庭用ゲーム機としての要素が強かったでしょう。
プログラミング言語はBASICでしたが、日本語(カタカナ)で命令を記述する日本語BASICでした。例えば、BASICのGOTO(指定した処理にジャンプ)は「ニイケ」、PRINT文は「カケ」などに置き換えられていました。ゲーム専用機的機能からわかりやすく日本語でという意図があったと思いますが、逆にわかりづらいところがありました。後に英語表記のBASICも登場しました。ゲームを作ることもできると画期的な機能もありました。グラフィック表示ではスプライト機能も使えました。スプライト機能とは、ゲームなどのキャラクター描画には強い機能でした。この機能を持たないパソコンでは背景のある画面にゲームキャラクタを描画する際に背景とキャラクターの画像を重ね合わせたデータを作って描画させなければなりませんでした。スプライト機能を使えば、プログラミングの際、背景との重ね合わせを気にすることなくキャラクターの描画ができ、ゲーム作成が楽になります。パソコンでゲームを作りたかった私はこの機能に憧れていました。
大変興味深いパソコンではあったのですが、家庭用ゲーム機と競合することとなり任天堂のファミリーコンピュータの登場で縮小していきました。

4.3 VIC-1001

10万円台後半から20万円クラスのパソコンはとても買えません。社会人の今ですら25万円もするMacBook Proを買うのに一苦労ですからね。ここで定価69,800円というパソコンが発売されます。コモドールのVIC-1001です。「なんとか(親に)買ってもらえるかもしれない!!」と淡い期待を持たせるパソコンでもありました。
低価格なパソコンでありながら、しっかりとしたキーボードを持っていました。CPUは6502でAppleIIやファミコンでも採用されたCPUです。PCGを搭載していたことも興味を引きました。プログラマブル・キャラクタ・ジェネレータで文字(キャラクター)を自分で定義できるものでした。ゲームでも使うことができました。PCGについてはPC-8001やMZ-80Kもサードパーティーメーカからオプションボードが発売されていました。やはり、低価格なホビー用とパソコンであるためゲーム機能は必要でROMカートリッジによりゲームも発売されていました。

4.4 JR-100

低価格パソコンとして登場したのは松下通信工業(現パナソニックモバイルコミュニケーションズ)から54,800円で発売されました。これも手が届きそうなパソコンでした。ボディはコンパクトでキーボードは特徴的な青のゴムキーボードです。今でいうところのアイソレーションキーボードですね。消しゴムキーボードとも呼ばれていましたね。位置づけは入門機と言われていました。画面表示はモノクロのみで、グラフィック機能もありません。文字も英数字のみでカタカナもありませんでした。ただPCG機能(VIC-1001の項参照)があり、32文字のキャラクター設定ができました。低スペックではあったのですが、この機能を使ってゲームを作るなど、プログラミングの楽しみを味わえるパソコンの一つでした。
BASICでは文字の表示する座標を指定するコマンドLOCATE文がありました。(MZ-80ではCURSOR文)座標指定はX座標、Y座標の順に指定しますが、JR-100だけはY座標、X座標の順で指定します。よく間違えました。

4.5 ベーシックマスターJr.

日立のベージックマスターシリーズは上位機種のLevel 3が20万円代、主流機のLevel 2が148,000円でした。ベーシックマスターJr.(ジュニア)は、低価格帯パソコンとして89,800円で発売されました。エントリーモデル的な位置付けでありながらキーボードは本格的なしっかりとしてキーボードでした。ステップスカルプチャと呼ばれるキーボードで側面から見ると曲面のようにキーボードトップが並び、タイピングしやすい形状となっています。私も電気屋で散々使いました。キーボードの安定性と打ちやすさは他のパソコンとは群を抜いて素晴らしいものでした。

4.6 PC-6001

新日本電気からPC-8001の下位モデルとして登場したのがPC-6001です。「より親しみやすく」ということで「パピコン」と呼び「じゃんけんポン!カセットポン!」というキャツチフレーズで発売されました。ソフトウェアをROMカートリッジ供給できゲームソフトなども発売されました。当時、外部記憶装置はカセットインターフェースが主流であり、すぐに使えるということは課題の一つだったと思います。価格は89,800円。これはなんとか買えないか(買ってもらえないか?)と真剣に考えたパソコンです。ただ、エントリーモデル的な要素もあり、デザインもオモチャっぽさはあり「本格的に使うのであればPC-8001にすべき」という考えもありました。
ホビー用途に特化しているということで、ゲームを意識してPC-8001にはなかったサウンド機能がありました。日本電気としては、ホビー用途は6000系、ビジネス用途は8000/8800系という考えがあったのでしょう。
グラフィックは256×192ドット(モノクロ2色)、128×192ドット(4色)、64×48ドット(9色セミグラフィック)です。サウンド機能はX1やFM-7と同じPSGを搭載していました。ゲームを意識していたことと低価格であったことでホビー用途には大ヒットしたパソコンでした。パソコン雑誌にもPC-6001のゲームが多く投稿されました。

5 第二世代8ビットパソコン

パソコンと言えば、PC-8001、MZ-80、ベーシックマスターという所謂「御三家」に各メーカーからパソコンが発売されていきました。ここに東芝、富士通というメーカーが参入します。興味深いのは各社ともパソコンというのは汎用計算機の流れではなく、電卓の延長であったり、ホビーキットやトレーニングキットの延長であったり、半導体の応用製品として出てきたりと様々な各社の事情があったことです。

5.1 PASOPIA

ノートパソコンと言えば東芝でした。Dynabookシリーズは今でも家電量販店に行くと沢山並んでいます。そんな東芝ですが、パソコン市場参入は後発組でした。後発といっても発売は1981年で、PC-8001、MZ-80、ベーシックマスターの後発ということで富士通のFM-8同様に私の中では「パソコン二年生組」と見ていました。
CPUはZ80A、グラフィックはPC-8001同様に160×100ドットのグラフィックスですが1ドットごとに色が付けられるという意味では、PC-8001を超えていました(PC-8001ではドット単位の色指定ができませんでした)。また、ファイングラフィックモードとして640×200ドットで8ドット単位に8色指定できました。当時のパソコンのサウンド機能はブザーを鳴らすか鳴らさないかというレベルでしたが、PASOPIAはZ80CTC(タイム機能を持った周辺IC、Counter Timer Circuit)により音階を付けてブザーではあるのですが、音楽を奏でることができました。BASICにもSOUND文とPLAY文がありました。
言語はT-BASICです。更にOA-BASICが別に用意され、カードリッジによりPASCALなどの言語が提供されていました。ある意味PC-8001とMZ-80のいいところを持ってきたのかもしれません。T-BASICが用意されたモデルはPA7010、OA-BASICが用意されたモデルはPA7012と型番がついていました。
ボディはくさび形のデザインでとても格好良かった印象があります。実はパソコンを購入するときに後述するFM-7にしようか、このPASOPIAにしようか凄く悩みました。この後グラフィックと音楽機能を強化したPASOPIA 7が発売され、ビジネス用途では16ビットモデルのPASOPIA 16や1600シリーズ、MSX機としてPASOPIA IQシリーズにも展開されていきました。残念ながら主流とはなれませんでした。しかし、東芝のパソコン事業はノートパソコンの世界的な代表作Dynabookへと展開されていきます。今はDynabookという会社でシャープ配下になっていますが。

5.2 FM-8

日本電気、シャープ、東芝、日立とパソコンが出てくる中ついに富士通がパソコンを発売します。ただ、電機メーカー=家電メーカーという印象でいたため、「富士通?ってそんな会社があるの?」というのが当時の中学生の感想でしてた。そう、富士通は汎用計算機では日本を代表する、いやIBMと互角に渡り合う世界的なコンピューターメーカーでした。
元々はLKIT16というトレーニング用のボードコンピュータは出していました(松下との合弁会社のPanafacomからですが)。富士通初のパソコンはFM-8。正式名称Fujitsu Micro 8です。型式はMB25020。富士通のパソコンは「FMシリーズ」と呼ばれていますが、名前の由来はここから来ています。8ビットパソコンとしては、日本電気のPC-8801、日立のベーシックマスター、シャープのMZ-80Bと並ぶ高級8ビットパソコンと言えるでょう。当時は半導体拡販の一つとして富士通の半導体事業部から発売されました。富士通川崎工場から出荷され、梱包の段ボール箱にも富士通半導体事業部と書かれていました。
CPUはモトローラ社の6809です。多くのメーカーがザイログ社のZ80を採用していましたが、富士通と日立はモトローラ系を採用していました。特徴的なのが6809を二基搭載したデュアルCPU構成です。メイン処理とグラフィック処理を行うサブCPUから構成していました。8ビットCPUが64KBのメモリ空間しか扱えませんが、グラフィック処理を行うためのメモリ空間は640×200ドットの8色表示の場合48KB必要です。各社はメモリ空間を切り替える「バンク切り替え方式」(PC-8801)を採っていましたが、FM-8ではもう一つCPUを載せて、そのCPU(サブCPU)に画面表示処理を任せてしまう方式を採りました。いかにもコンピュータ開発のプロが作った凝った構造だと言えるでしょう。逆にゲームには不向きなハードウェア構成となってしまいましたが。これは後述のFM-7でお話します。
オプションとしては漢字表示をするための漢字ROMボードやZ80そのものを載せてCP/Mを動かせるZ80カードなど豊富に用意されました。
外部記憶としてはカセットテープとフロッピーディスクが一般的でしたが(フロッピーディスクはとても高価で買えるものではありませんでした)、FM-8には「バブルメモリ」という他にはない外部記憶装置がありました。磁気バブルを使ったメモリモジュールです。容量としては32KBと128KB。容量比の単価としては高価なものでした。また、本体にはアナログ入力を行うアナログポート(A/D変換器のインターフェース)が搭載されていました。これは本来の用途とは別にジョイスティックにも使われることになりました。後述するFM-7ではアナログポートは削除されFM-8だけの機能となりました。
グラフィック機能は640×200ドット、8色表示です。但し、グラフィック性能は決して速いとは言えませんでした。BASICで線を描画するLINE文や円弧を描くCIRCIR文では描画しているところが目で追える程でした。逆にゲームではビームを打っているように見えるとかその描画効果があったと言えます。
その流れはFM-7とFM-11と受け継がれます。

5.3 PC-8801

高機能8ビットパソコンとして日本電気はPC-8001の上位機種としてPC-8801を発売しました。国内メーカーのパソコンとしては初めて本体とキーボードが分離したボディとなりました。今では当たり前ですが(逆に一体型が懐かしがられるのですが)、当時としてはとても画期的でした。
グラフィックが160×100ドットのPC-8001から640×200ドット表示になり、更にモノクロでありながらも640×400ドットという高精細(当時)表示ができるようになりました。いわゆる「400ライン表示」という指標が出たきっかけのマシンと言えるでしょう。ビジネス機という位置づけもあり、サウンド機能はありませんでした。価格は228,000円でした。
BASICはN88-BASICとなりました。また、PC-8001のN-BASICも搭載しており、本体のスイッチ切り替えかNEW ONというBASICのコマンドで「N-BASICモード」とすることでPC-8001のソフトが(主にゲームソフトですが)そのまま使えるという上位互換性を持っていました。PC-8001ユーザーがそのままPC-8801に移行するということにもなり、日本を代表する8ビットパソコンとして大ヒット作となりました。後継機としてPC-8801mkII、PC-8801mkIISRと続き、PC-9801全盛期となるまで長い間続いたシリーズとなりました。

5.4 MZ-80B

パソコンの草分け的存在であるMZ-80も進化を続けていました。半完成品のキットであるMZ-80Kから、その完成品として発売されたMZ-80K2、MZ-80C、MZ-80シリーズ10万台出荷機連モデルのMZ-80K2Eとマイナーチェンジは続きます。そして、最上位機種のMZ-80Bが登場します。
MZ-80Bはそれまでのホビー色の強いMZ-80K/Cシリーズとは異なり全面シルバーボディーの角ばった(よりシャープな)デザインで高級感を出していました。CPUは、MZ-80シリーズ同様にZ80Aでしたが、従来機の動作周波数が2MHzから4MHzに高速化、メモリも大容量(!!)64KB搭載する高級機です。価格も278,000円とパソコンとしては高価な部類に入ります。
グラフィックは320×200ドットのグラフィック表示が可能になっていました。残念ながらこの時点でも一体型のモニタはグリーンモニタでモノクロ表示でした。外部記憶装置のカセットインターフェースは、従来機の1200ボーから高速化され2000ボーとなり、初めてカセットテープの巻き戻し・早送り、頭出しが制御できるようになりました。
クリーンコンピュータ構想はそのまま引き継がれ、これを最大の特徴として「未来対応型」とカタログにも書かれていました。「BASICをROMに固定したいわゆるBASICマシンとは全く次元を異にしておりもさまざまな分野での自在な応用性を誇っています。3年先、5年先を考えるならシャープのクリーンコンピュータ、そういう意味からもMZ-80Bは、まさに「マイコン未来形」です。」とカタログに書かれています。ここで他社との差別化を図ろうとしたのでしょう。しかし、このカタログの文章、もうちょっと簡潔にわかりやすく書けなかったのかな?と思います。私の会社だと絶対に担当者レベルで却下ですが。実際のところ3年、5年先は時代が変わっているわけで、残念ながら未来に対応するとまではいきませんでした。

6 ホビー機能が強化された第三世代8ビットパソコン

この世代分類は私が独自に判断しているものなので皆さんとは意見が違うと思います。キットから製品へと移行し、そして機能強化してビジネス用途にも耐えられるようにとパソコンは進化していきました。その一方、ホビー用途としてゲーム機としての機能強化が必須事項となってきました。業務用ゲーム機並みのグラフィック機能とサウンド機能、サードパーティーメーカからは拡張グラフィックボードやサウンドボードが出てきましたが、最初からその機能を持つパソコンはありませんでした。
そしていよいよ、本格的なゲームもできるようなグラフィック機能やサウンド機能を強化したパソコンが各社から登場します。

6.1 X1

 シャープは二系統のパソコンを出していました。MZシリーズとX1シリーズです。

 X1シリーズはテレビ事業部というテレビを取り扱う部門が開発したパソコンです。MZシリーズとはCPUが同じZ80というだけで互換性はまったくありません。今だったら同じ社内で同じカテゴリの製品を別部署がそれぞれ出すなんて開発の稟議が通らないでしょうね。ですから、この当時だったからこそ発売できるパソコンだったと思います。当時テレビ事業部で栃木県矢板市にあります。後にX68000へと繋がるXシリーズのパソコンです。商品名も「パソコンテレビX1」でした。モニタにはテレビチューナーが搭載されており、パソコンというよりはパソコン機能付きテレビといったところでしょう。テレビとパソコン部分は、ビデオ取り込みができるわけではなく、テレビの映像とパソコンの表示を重ね合わせて表示できるスーパーインポーズ機能がテレビとの連動機能になります。また、キーボードからテレビのチャンネル切り替えや音量調整もできました。

 グラフィックは640×200ドットの解像度で8色表示できます。PCG(プログラマブルキャラクタジェネレータ)が搭載されており、サウンド機能はPSG(プログラマブルサウンドジェネレータ)を搭載していました。ゲームソフト開発には羨ましくなるようなスペックでした。

 思想はMZシリーズと同じクリーンコンピュータ構成です。BASICをカセットテープからロードする仕組みは変わりません。後継機が出てBASICインタープリタがバージョンアップされても初代X1でも使用できました。カセットインターフェースは高機能化しており、MZ-80B同様に巻き戻し・早送り・頭出しが制御できます。通信速度は2700ボーを実現しています。カセットテープレコーダーは本体に内蔵されており、データ転送も安定して(カセットインターフェースとしては)高速に行えました。

 ボディは本体とキーボードが別になっているセパレートタイプと呼ばれるものです。更に初めてカラーバリエーションが用意されました。ローズレッド、ホワイト、シルバーの三色です。「赤いパソコン」はX1が最初でした。(と言っても当時”通常の三倍速い”と言われることはあまりなかったと思いますが。)

 X1シリーズにはこの後本体とキーボードが一体化されたX1Cというモデルも発売されました。X1Cは学生時代に友人に中古で譲っていただき、持っていました。

6.2 MZ-700

 一方、同じシャープからはMZ-80シリーズの後継機としてMZ-700シリーズが発売されます。今までディスプレイモニタ一体型から分離型となりMZ初めてカラー表示ができるようになりました。MZ-80と互換性を保ちつつ、カラー表示や単音ながらも音程がつけられるサウンド機能も搭載されました。特徴的なのが4色カラーボールペンを使ったプロッタプリンタです。搭載機能により三つのグレードに分けられています。ベースモデルがMZ-711、データレコーダー内蔵型がMZ-721、データレコーダーとプロッタプリンタ内蔵モデルがMZ-731として発売されました。

 MZ-80と比べて、CPUは動作周波数が2MHzから3.5MHzになり、メモリも64KBフル実装されました。但し、ホビー用途ではあったもののグラフィック表示機能がなく文字がカラー表示されるだけであり、同時期のホビーパソコンから見劣りするところはありました。

6.3 FM-7

 富士通のFM-8はビジネスパソコンとしての色合いが非常に濃いパソコンでした。ホビー用途として登場したのはFM-7です。正式名称 Fujitsu Micro 7。FM-8の廉価版であり7ということでしょう。もしかしたらラッキー7的な意味合いもあったのかもしれません。後発のPASOPIA 7が「7というのはFM-7を意識したものではなく、ラッキー7を意識したものだ」と東芝の方が言われていました。メーカーの型式はMB25010です。FM-8がMB25020でしたので、最初からFM-7は予定されていたのかなとさえ思ってしまいます。この当時FM-8は「エイト」(またはマイクロ・エイト)、FM-7は「セブン」と呼ばれていました。同時にFM-8の上位モデルとしてFM-11も発売になりました(FM-11は、学生時代に先輩に譲ってもらってFM-11ADというモデルを持っていました)。FM-11は本体とキーボードが分離されたセパレートモデルで、ビジネス用途を強く意識したモデルになります。FM-8はホビー用途のFM-7とビジネス用途のFM-11に別れて発展することになります。

 FM-7はホビー用途を前面に押し出して、ボディの色は白と薄い黄色(拡張カード格納の蓋に当たる部分)から構成された明るい色となっています。価格も126,000円と挑戦的な価格でした。プロモーションもタモリさんを採用して「青少年は興奮する」とのキャッチコピーで大々的に行われました。おそらく汎用計算の富士通がコンシューマ市場に打って出たのはこれが初めてでしょう。また、タモリさんも当時「笑っていいとも!」が始まった頃で人気があり、趣味としてオーディオやアマチュア無線に造詣が深いので一般の方にも我々マニアにも好印象でした。ちなみにFM-8のイメージキャラクターは伊藤麻衣子さんです。

 FM-8の下位モデルの位置づけながらも性能ははるかに向上していました。「価格は半分になり、性能は二倍になった」とも言われました。CPUはFM-8がモトローラの68A09で動作クロックが1MHzであるのに対して、68B09の動作クロック2MHzになりました。これは、内部動作の周波数です。6809は外部からの周波数の1/4の周波数で内部動作させます。外部からは8MHz(FM-8は4.9MHz)の周波数が入力され、内部で2MHzで動作していました。これで性能がほぼ倍になり「FMシリーズは遅い」という評判が払拭されました。逆にFM-8と比べて速すぎてしまうために背面にはFM-8と同等の速度となるようなモード切替のDIP-SWが付いていました。基本構成はFM-8と変わらず、メインメモリ空間で処理するメインCPUと画面処理を行うサブCPUから構成されています。更にサウンド機能としてヤマハのPSG(プログラマブルサウンドジェネレータ)を搭載し、ゲームの効果音や音楽演奏に威力を発揮しました。

 BASICはF-BASIC V3.0が搭載されています。F-BASIC V1.0はFM-8、V2.0はFM-8のディスクBASICでした。ハードウェアとしてもFM-8の上位互換にあたり、FM-8用のソフトはほとんど動かすことができました。

 一方、FM-8に搭載していたアナログポート(A/D変換)、バブルメモリ、シリアル通信(RS-232C)は削除されています。

FM-7は私が最初に買ったパソコンです。詳しくは後ほどお話ししましょう。

6.4 日本電気は?

さて、日本電気はどうでしょう?PC-8801の後継機としてPC-8801mkIIが発売されました。フロッピーディクスドライブが二基搭載可能なモデルでした。標準で漢字ROMが搭載されるなどビジネス色の強いマシンでした。でも、当時の国内市場は日本電気のパソコンが圧巻していてソフトウェアが豊富に出ていました。まさに「パソコンの王者日本電気」です。そこでPC-8801mkIIはホビーパソコンとして買われていました。PC-8001とPC-8801との互換性も保たれたこともヒット作品となった要因と言えるでしょう。そのユーザーの多さ故にソフトウェアも豊富に出て、周辺ハードウェアも多く出て、市場がPC-8801シリーズを支え続けたと言っても過言ではありません。この後、シャープや富士通から遅れますが、最強の8ビットパソコンPC-8801mkIISRが登場します。

7 わが青春のFM-7

 パソコンを持っていない人たちを「ナイコン族」と呼んでいました。私もポケコンは持っていましたが、電気屋さんで使わせてもらってはいたものの自分ではパソコンを持ってませんでした。当時は中学生で、高校生になればなんとか持てないかという希望を持っていました。もらったお年玉はほとんど使わずに貯めてありました。なんとかならないかと思っていましたが、やはり高校受験もあり、アマチュア無線や電子工作に明け暮れていたのでここでパソコンなんか買ったら受験どころではないので、とても買う状況ではありませんでした。

 いつか買うパソコンは何にするかずっと検討していました。MZ-80Kが一番の憧れですが、ソフトが沢山あってカラー表示できるPC-8001も魅力です。ただ、日本電気が後の98時代のように圧倒優位ではなく、どれが主流になるかわかりません。折角買ったパソコンがマイナーマシンとしてソフトが何も出ない状況になるのは避けたかったのです。低価格で買えそうなベーシックマスターJr.、PC-6001、JR-100などもいいと思いつつ、上位機種も欲しいと考えていました。そこに丁度いいクラスのパソコンが発売されました。

そう・・・その名は FUJITSU MICRO 7

7.1 FM-7登場!!

 富士通のFM-7はグラフィック機能もサウンド機能も充実していて、価格も126,000円という価格帯は、ちょっと背伸びすればなんとか買えるかなというものでした。何よりも640×200ドットの8色カラーグラフィックにサウンド機能で「いろいろできそうだ」というワクワクするものがありました。そのワクワクは新製品であったこともありますが、何かを期待させるものでありました。

7.2 FM-7かPASOPIAか?

 そして、もう一つ候補に上がったのが東芝のPASOPIAです。カートリッジでBASIC言語の他にPascalが用意されていました。クリーンコンピュータ構想に近いのですが、将来このカートリッジで機能が強化されるのではないかという幻想を抱いていました。また、くさび形のボディも魅力的でした。格好良かったのです。一方、FM-7は外観のおもちゃっぽさがまだまだありました。デザインとしては格好の良いものに越したことはありません。内容のワクワク感ではFM-7ですが、パソコンとしての拡張性への期待とかっこいいデザインに悩みました。ホビー用途としての性能はFM-7の方が高い性能を持っていました。PASOPIAが同等の機能となったのは後継機のPASOPIA 7でした。

 最終的には、野暮ったいデザインでも今実現できている機能を使うことを優先させてFM-7にしました。これは後々のFM-7とPASOPIAの状況を見ると大正解でした。いや、反対の判断をていたら大失敗で、この後パソコンを使い続けていたかわかりませんでした。

7.3 高校受験合格の夜に

 高校受験日は1983年2月18日だったと思います。私立の某大学付属の高校になんとか合格できました。合格発表があったのは2月20日だったと思います。さすがに合格しないのはまずいので勉強はしていましたので、アマチュア無線も電子工作もパソコンのエアプログラミングも控えていましたので開放感でいっぱいです。さて、問題はどうやってパソコン購入の許可をもらうかです。自分の貯金であっても10万円を超える買い物は当時としては勝手にできるものではありませんでしたので。

 高校受験の合格発表の夜の話です。親父に呼ばれて「パソコンを買ってよし。但し、お前のゴミ箱のような部屋を片付けてからにしろ。」と言われてパソコン購入の許可が出ました。飛び上がって喜んだ覚えがあります。いや、高校合格より嬉しかったかもしれません。

7.4 1983年3月7日

 ついにパソコンを買うことになりました。早速、駅前のLaOXに相談しました。当時のLaOXは「町の電気屋さん」で、何かあると馴染みの店員さんが家まで来てくれたのです。ただ、駅前のLaOXはパソコンになんて置いてありません。店員さんも家族と仲よかったので、パソコンを買うと言ったらすぐに家に来てくれました。パソコンは富士通のFM-7を機種を指定して、オプションは何が欲しいかを伝えていました。


最初考えていたのは下記の構成です。

・ FM-7本体
・ RFアダプタ(居間のテレビにつなげて使うつもりでした)
・ データレコーダー(カセットテープレコーダー)

 駅前のLaOXの店員さんはわざわざ新宿のLaOXに行って色々と調べて来てくれました。そして提案したのが「RFアダプタでテレビに繋ぐのではなく、カラーCRTモニタにした方が綺麗に映るし、これから使い続けるのならモニタを買った方がいい」とのことでした。パソコンをなんとかテレビに繋ぐことばかり考えていたので、モニタ購入は考えていませんでした。ここは思いきって富士通のカラーCRTモニタを買うことにしました。家に届けてもらうことになったのですが、一週間以上かかりとても長い間待った気がします。

 時に1983年3月7日。家に帰って来たら母に「届いているよ」と言われて部屋に入ったら、FM-7本体の箱とカラーCRTモニタの大きな箱そして三洋電機のデータレコーダーの小さな箱が置いてあります。あのFM-7の白い段ボール箱にオレンジ色のFM-7のロゴ、富士通のロゴを見た感動は一生忘れられません。「おおおーーーーーーキターーーーーーーー」って大喜びしたのを覚えています。

 掻き込むように夕飯を食べて、FM-7を出します。新しい製品のあの「新製品のかほり」が漂います。早速電源を入れます。

F-BASIC V3.0
READY

と表示されてカーソルキーが点滅します。早速PRINT文とCOLOR文で文字をから表示させたり、LINE文やCIRCLE文で線や円を描画したり、PAINT文で塗りつぶしたり今まで電気屋さんでしかできなかったことが自分の家で自分の所有しているパソコンでできたことが夢のようでした。

 親父も興味津々で、私が寝た後にBASICのプログラミングの本片手に色々と使い込んでいました。それ私のパソコンだろと。(^_^;)

7.5 テキストとグラフィックの混在

 FM-7は他のパソコンとは異なる構成がいくつかありました。まず、画面表示系はFMシリーズ独自のものでした。画面表示をするためにはそのメモリ領域が必要です。VRAM(Video RAM)としてメモリが用意されています。PC-8001などのグラフィック機能をもつパソコンは文字を表示するためのテキストVRAMとグラフィックを表示するためのVRAMが分かれていました。よって、グラフィックと文字表示を重ねて表示することができます。FMシリーズはこのテキストVRAMがありませんでした。文字もグラフィックとして表示させていました。ですから、グラフィック表示させている画面に文字を表示させると文字の余白部分がそっくり欠けて表示されてしまいます。ゲームなどで文字表示させるときは、文字自体をグラフィックとして表示させるなど苦労しました。

7.6 「5」のキーを押せ!!

 「FMシリーズはゲームに向かない」という理由がもう一つありました。それは、キーボード入力です。FMシリーズのキーボード入力は4ビットのコントローラで制御していました。一方、PC-8001やMZ-80はマトリッククス上のスイッチでソフトウェアでキーボードの入力状態を見ていました。一見、コントローラ制御のFMシリーズの方が優れているように見えますが、重要な問題があります。FMシリーズはキーボードを押すと、コントローラからは同じキーコードを出し続けてしまいます。つまり、それぞれのキーが押されたか離されたかの識別ができなかったのです。例えば、ゲームのキャラクター移動をテンキーの2(下)、4(右)、6(左)、8(上)で行う場合、4のキーを押したら手を離してもゲームのキャラクターは右に行き続けてしまいます。ゲームソフト側にすでに4のキーが押されていないことを知らせなければなりません。何も影響のない別のキーを押すしかありませんでした。そこでゲームのキャラクターの移動を止めるときはテンキーの中央の「5」のキーを押して止めていました。これはFMユーザーの間だけの技でした。

 いわゆる「リアルタイムキースキャン」というものでFMシリーズにはこの機能はありませんでした。リアルタイムキースキャンは後継機のFM77AVになってやっと搭載されました。

 また、もう一つの問題として複数のキーが押されたことも判断できませんでした。コントローラからは押されたキーのコードが伝えられますが、通知方法が一種類の為です。PC-8001だとキーボードのマトリクスのどこの”場所”が押されたかを知ることで複数のキー入力を検出できました。これにより、テンキーを使ったゲームキャラクタの移動では4(右)と8(上)のキーを同時に押すと斜め右上に移動させるということもできたのです。

7.7 ミサイル発射はBreakキー!!

 FMシリーズはリアルタイムキースキャンができず、キーを押したか離したかが判別できないとお話ししました。シューティングゲームなどで「ミサイルやビームを発射」する時には致命的でした。ただ、一つだけ方法がありました。それは「Breakキー」です。

 Breakキーは押すとCPUである6809にFIRQという「割り込み」が入るようになっていました。FIRQはFirst Interrupt Requestで、最優先で割り込み処理をする仕組みになっています。この”最優先処理”をミサイル発射に使ったのです。他の機種がミサイル発射はスペースバーかZかXのキーだったのに対してFMシリーズはBreakキーだったのです。Breakキーはキーボードの左上にありました。今のキーボードでいうとESCキーのあるところですね。ですから、みんなFM-7のキーボードの左上とボディの左上側面は擦れてツルツルになっていました。

7.8 ?YAMAUCHIコマンド

 更にFM-7がゲームに不向きと言われる要因の一つにVRAMにダイレクトにアクセスできないという問題がありました。他のパソコンはVRAMのメモリ上にデータを書き込めば画面に表示されます。FMシリーズは画面表示をサブCPUに任せておりVRAMはサブCPUからでしかアクセスできません。メインのプログラムを動かすメインCPUからはVRAMに直接アクセスできないのです。では、画面表示はどのように行うのかというと、メインCPUとサブCPUの両方各アクセスできる「共有メモリ領域」があり、この領域を使ってメインCPUとサブCPUのデータ交換を行います。しかし、この共有メモリ領域は128バイトしかありませんでした。$FC00番地から$FC7F番地までの領域だったと思います。具体的には「線を引け」「円を描け」と指示するだけだったのです。これではゲームに耐えうるような描画はできません。そして裏コマンドが出回りました。?($3F)YAMAUCHIから始まるコマンドが用意されメインCPUからサブCPUにデータを送りサブCPUに実行を指示することができるようになりました。元々はデバッグ用のコマンドで富士通の技術者である「山内さん」が用意したといわれています。YAMAUCHIコマンドとしてFMシリーズのプログラミングでは有名な話でした。

7.9 裏RAM

 メモリ構造も面白い構造でした。メインCPU空間では64KBのメモリ空間があります。前半32KBはRAMでここにワークエリアとかプログラムを置きます。後半32KBはBASICのROMとI/O空間です。Z80系のI/O空間はメモリ空間とは別にI/Oのアドレスがあったのですが、6809はメモリ空間にI/Oを割り当てるというメモリマップドI/Oという手法を使っていました。FMシリーズでは$FD00番地から$FDFF番地までの256バイトを割り当てていました。BASICのROMは$8000番地から$FBFF番地まで割り当てられていました。更に「裏RAM」というのがあります。BASICのROMがある$8000番地から$FBFF番地にRAM領域があり使うことができます。ROMと裏RAMの切り替えはソフトウェアで行います。FM-8ではソフトウェアで切り替えられず背面のDIP-SWで切り替える仕組みになっていました。FM-7ではDIP-SWとソフトウェアの切り替えができるようになっています。もちろん、BASICでプログラムを動かしているときに切り替えてしまうとBASICのROMが見えなくなってしまうのでマシンごと停止してしまいます。切り替えはマシン語で切り替えるようにしていました。具体的には$FD0F番地に書き込み操作をすると$8000番地から$FBFF番地が裏RAMに、$FD0F番地を読む操作をするとBASIC ROMに切り替えられます。有効に活用するとプログラムのデータを裏RAMに置くことができます。RAMディスクとしても使用することもありました。

7.10 沢山の解説書

 FMシリーズは技術情報が沢山開示されました。FMシリーズだけではなくPC-8001も回路図そのものを見ることもできました。当時はLSIなど使わずに汎用的な部品のみを使っていたので実機と各ICのデータシートがあれば内部構造が分かったのです。
月刊I/Oで有名な工学社からは「活用研究」というシリーズが出て、内部構造からゲームソフトの公開まで詳細に記載されていました。FM-8活用研究、FM-7/11活用研究が出ていました。また、秀和システムトレーディングからはBASICのROMの構造を解説した解説書も出ていました。当時はメモリマップは頭に入っているくらい読み入りました。どの番地に何があるかまで大体覚えていました。裏RAMの項で書いた各種アドレスも何の資料も見ずに覚えていました。
これらの情報開示のおかげでいろいろなことを試すこともでき、プログラムもいろいろと作りました。

8. あとがき(中締め)

 私の記憶にある古き良きパソコン時代のお話をさせていただきました。書いているうちに「あのパソコンもあった。このパソコンもあった。こんなことがあった・・・」と話が尽きなくなりました。お読みいただいている皆さんもそれぞれ思い入れがあり「肝心のこの機種について書かれていないじゃないか!!」「この話題に触れないでどうする。」「世代分けはそうじゃないだろ!!」と思われるかもしれません。この後も続きを書いていきたいと思います。世代高級8ビット機FM77AV、PC-8801mkIISRシリーズ、MZ-2500シリーズ、X1 Turboシリーズのお話ができると思います。

今はパソコンの時代からスマートフォン、そして機器と機器が通信し合ってシステムを構築していくIoTの時代になってきました。1980年のパソコン創成期からみるとまさにSFの世界です。AIも実用化が進み、人間の仕事が奪われるなんて話にもなっています。そんな中、その基礎となる技術の誕生の場に立ち会えて、そしてその発展にわずかながらでも貢献できた者の一人としてうれしく思っています。

そしてこれからもこの世界に立ち会い、発展させる者として貢献していきたいと思っています。

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